Jul. 02/2019

79歳、誕生日を前に思うこと

私はどう生きてきたのか

 

 私は1940年昭和15822日神戸市灘区篠原南町で生まれた。父の熊雄の生まれは韓国の群山(クンサン)、当時は日本の植民地だった朝鮮全羅北道群山府竹城里で1915年大正374日に生まれた。父は長じて旅順工科大学冶金学科を卒業し住友製鉄に入り縁あって福岡市の福岡女子専門学校を卒業し大阪の大阪女学院中高部で国語教師をしていた母の佐々木達子(台湾台北城南街で大正4329日生まれ、平成19年9月3日92歳で逝去)と結婚、1940年昭和15神戸で長男の私が生まれた。生まれてすぐ父の勤務地の大連へ向かったが戦争が近くなって日本に帰国、戦中の1943年昭和18116日に西宮市の鳴尾で次男の正徳が生まれた。1941年昭和1612月の真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争に突入、1945年昭和208月長崎、広島への原子爆弾の投下を以て終戦、戦後すぐの昭和213月三男の桂一が生まれた。私たちは戦争が激しくなり関西から父の故郷佐賀県鹿島市へ疎開して田舎暮らしをしていて、そこで弟の桂一は生まれた。終戦後1946年昭和214月父は母の父で私の祖父の佐々木賢治が戦前中学部長をしていた福岡市の西南学院高等学校の理科教師の職を得て佐賀から福岡に転居私は福岡の簀子小学校に入学、中学は西南学院へ。結局私たちは福岡で9年暮らしたがその間1949年昭和24822日四男の光司が福岡で生まれた。弟光司は私と誕生日が同じ日に生まれ、まるまる9歳違いの弟となった。男ばかりの4兄弟の長男として私は中学は西南学院中学で学んだが父の熊雄は私の小学校の頃から体を崩して病院暮らし、そのために母は苦しい家計を当時福岡にあった駐留米軍板付ベース基地の米国人への日本語教師として働き、暮らしを支えた。母の父の佐々木賢治は東京外大英文科を卒業した英語教師、その家庭の三人兄弟姉妹の母は長女、兄の凛一は時事通信社の新聞記者、妹の鏡子はアメリカ文化センターに勤めた英語が得意な一家だったのだが、母の達子は私が中学生の頃福岡の米軍板付基地の小学校に着任された駐留米国人小学校教師のJ.L.ウォードさんに日本語を教える機会を得て教師と生徒として知り合い、お互いが親しくなった。ウォードさんは日本に興味が深く、米国に帰らず日本で暮らしたいと思われるようになり、同じく父の病気のことで福岡に居づらくなっていた母と意気投合、福岡から大阪へ、母は結婚前に教えていた大阪女学院の教師として旧職に復帰、私たちの恩人ともいえるウォードさんは大阪の関西大学高等部等の英語教師などの職を得て私たちは父を福岡に残して関西に引っ越した。丁度私が高校の1年の5月、西南学院中学を卒業して福岡県立福岡中央高等学校に入学してすぐに引っ越して兵庫県宝塚市に移ったが、私は宝塚が校区の兵庫県立伊丹高等学校に編入学、間もなく神戸に移ったが弟達の3人はそれぞれ順次西宮の関西学院へ入学し中高大と関学で一貫教育を受けた。私は県立伊丹高校を卒業して京都の同志社大学へと進んだが、私たち兄弟4人皆が私学で恵まれた教育を受けることが出来たのは母が熱心なクリスチャンであったこととウォードさんの私たち兄弟への多大な金銭的な援助、献身的な力添えがあったからだと痛感する。

 

 関西に移ってすぐ母は昔勤めていた大阪女学院の教師に戻ったが、ウォードさんは私たちと一緒に住み、関西大学はじめ関西学院、甲南女子大学などの英語の先生としてや大阪の会社の英語教師として亡くなるまで日本人の英語教育に尽力され1911年平成11年3月81歳で(母の2歳年下だが)亡くなられた。昭和381973年私は同志社大学で卒業の時を迎えた。大学では文学部文化学科美学・芸術学科を専攻し、部活では同志社大学交響楽団やエキストラで参加した同志社大学マンドリンクラブのクラリネット奏者として演奏活動や演奏会などに熱中した。就職に際しては文系の学生のため、新聞記者や新しく出来たテレビ局員等の職業を目指そうと考えた。最終的には試験を受けてどちらも合格したのだが、受験した産経新聞大阪本社の文化部記者の道を選ばず、当時台頭して来ていたテレビの世界に意を固め大阪の関西テレビを選び、カンテレ付属の関西アートセンター制作部オーディオ課の専門職の道を選んだ。テレビの現場で音響効果、音の仕事に就いたわけで、それを選んだのは母の兄の佐々木凛一伯父の影響が大きかった。私たち家族は私の高校進学の時父と別れて関西へウオードさんと共に出てきたが父代わりに東京在住の佐々木凛一伯父が私と私たち家族のことでいろいろ面倒を見てくれた。伯父は東大文学部卒で時事通信の記者として戦時中はスウェーデンでの特派員として働いていて、記者として家族の妻の静子や長男の伸彦、次男幸彦、三男明彦を東京に残して、太平洋戦争の間は時事通信の欧州特派員として活躍していた。佐々木兄弟は皆勉強に大変優秀で、伸彦は国際基督教大学の文系、幸彦も同校の理系、三男の明彦は武蔵野工業大学の理系へと進み、夫々電通や千代田化工建設そして三男は川崎重工へと就職した優等生たちだった。伯父は戦後に帰国してNHKラジオのニュース解説やその後中部日本放送のニュース解説者や役員を経歴したが、伯父の子供たちはマスコミの世界で親の職業を継ぐ者が出なかった。そうしたことも一つの刺激となって私はマスコミを志望したが、同時に同志社大学は京都にあり当時の花形の職業としての映画やテレビ芝居や舞台の監督等が文系卒業生の憧れの職業で、私の専攻の卒業生のなかには生け花やお茶のの師匠千宗室さんや池坊専永さん、陶芸家、映画監督やテレビ局員などのアーティストが多数活躍していたこともあった。

 

 少し前に戻るが私が西南学院中学を卒業して関西に移る少し前、福岡中央高等学校での2か月ほどだったが、学校で背が高いのでスカウトされてバレー部の選手としてストッパー役を任されてクラブ活動をしたりしていたが6月に関西に移って兵庫県立伊丹高等学校に入るや学校で盛んだったクラブ活動の吹奏楽に興味を持った。そして当時の映画「ベニ―・グッドマン物語」を見たりして決定的で特別な刺激を受けてクラリネットに興味を持ち、高校のブラスバンドで音楽に親しみたいと母やウォードさんに頼んだら高いクラリネットを買ってくれた。それで以て高校時代はブラスバンドでコンクールや演奏会などで力をつけ、大学ではオーケストラやマンドリンクラブのエキストラとして音楽会や全国規模の演奏旅行など、家庭教師やアルバイト、部活や勉強にと学生生活を大いに楽しんだ。音楽家として生活出来たらどんなにいいだろうかなどとも考えたが単なる憧れは無理な話で、長男としてはちゃんと生計を立てないととか家庭の事情を考え、そこで文系の私としての進路が狭まり伯父の仕事に学ぼうと考えた。そんな道を誰かが一族のなかでも受け継いでもいいのではないかと父が理系の仕事だったのに私はそれが余り向かなかったので皆が心配した新聞記者などの仕事に就きたいと伯父に相談した。そこで就職試験として産経新聞大阪本社編集局文化部記者の試験を受けることにした。その採用試験の最中インターン試験で産経新聞大阪本社文化部のラ・テ係に配属されて就労しているとき、当時はまだ歴史が浅いが大阪にもNHKや民放のABC TV局が開局しているが新らしい局も開局し入社試験もあるので受けてみないかと勧められた。関西テレビは民放ではABC朝日放送、毎日、読売に続く4勢力で、その関西テレビは産経新聞がメインで神戸新聞や京都新聞、ラジオ関西やラジオ大阪等からの沢山の社員が寄せ集まって5年前開局した新しいテレビ局だった。フジテレビも東京で同じころに開局したのだが、今年2019年は開局60周年でフジテレビもカンテレもお互い60周年を迎えているが、当時は海のものとも山のものとも分からない新しい分野だった。佐々木の伯父はその頃中部日本放送の取締役をしていたが、関西テレビにも声をかけてくれた。試験も上手く行って制作の現場、音楽の力も発揮できるオーディオ、音響効果の仕事に採用された。と当時に、東京でも始まったばかりの民放テレビ局の採用も盛んに行われていて私にも祖父から日本教育テレビ今のテレビ朝日の試験があるから受けてみないかとの誘いもあったが、伯父に相談すると長男として母や弟の支えになれるので関西で仕事した方が良いだろう、ということで関西で働く道を選んだ。当初は新聞記者を目指していたのがテレビ局へと代わったことで私の家では私の将来を心配した。家は厳格なクリスチャンファミリーで私も熱心なクリスチャン、母は難しい芸能の世界は私に無理ではとか私の性格や新しい環境のこと等を心配してくれた。私は音楽が好きだったので新聞記者のような絵画などの評伝などをする文系の仕事よりも芸能の世界で働く放送局の仕事の方が身にあっているのでは、などと思ってこの世界へと飛び込んだ。

 

 1963年昭和384月、22歳、大卒のひよっこが生き馬の目を抜くような大阪市北区梅が枝町の関西テレビ放送で音響効果の仕事に就き、開局間もないスタジオで多くの先輩の指導のもと長時間の過酷な制作現場の仕事を覚えてゆくこととなったが随分戸惑うことも多かった。それから38年、2000822日の定年退職まで多くの高い山や難局を乗り越えて何とか無事に卒業した。放送の会社でのことや育って行く過程のことは若干私のホームページに書いているのでそれで以てその後の私の人生紹介としたい。とにかく猛烈なサラリーマン生活だったが今や穏やかな日々、毎日の生活に満足して過ごしている。これまでに多くの方の力添え、とりわけ妻の千恵子の協力を得たが、数々の皆さんから得たご恩を忘れずに感謝して生きている。私のサラリーマン生活は読書や音楽好きの一人の少年がその望みが叶って、演奏家としてではなく音の世界で美を追求する一人の挑戦者として新しい世界、未知へと挑戦し発展して行く、そうして一生をうまく終えれば、正に幸福な人生だとありがたく思うばかりである。楽しい人生、美しい音楽との出会い、それが私の一生を支えてくれた。神様に感謝だ。

 

 

尚、私のホームページには次のようなページがあり、これまでのテレビ局での生活の一部を書いている。そこで私の仕事ぶりの一端をご覧戴ければ幸いです。10年も続けている私のブログ、

  私のホームページのアドレスは https://hcikeda10.jimdofree.com/ で、その中でも

  

Book 8-No.40 2018 10/2 エイトプロ時代の制作番組の思い出

https://hcikeda8.jimdo.com/ のBook8-No.40  ”朝でも夜でもお早うございます!”

Book 7-No.23 2018 6/5 ふるさとZIP探偵団制作の思い出

https://hcikeda7.jimdo.com/ のBook7-No.23 "ふるさとZIP探偵団と最近の旅番組" 

※ふるさとZIP探偵団についてはウイキペディア Wikipedia でご覧下さい。 

Book 4-No.46    2016 11/1 関西テレビ入社からドラマ「どてらい男」までの制作した番組の思い出 

 https://hcikeda4.jimdo.com/ のBook4-No.46 ”私のテレビ遺産;私のテレビ履歴書” 

Book4-No.47     2016 11/8 関西テレビ時代の制作番組、効果の担当者としての思い出

https://hcikeda4.jimdo.com/ のBook4-No.47 "私のテレビ履歴書Ⅱ;KTVで"  

 

 ( ほかに Book6-No.11 には女優森光子さんとご一緒した時のことや京マチコさんとの仕事の思い出など、懐かしいむかし話しも )

 等を書いている。ブログはBook1から始めてもう10年ほどで、私の唯一の楽しみとして今も続けて綴っている。

 

振り返って私のテレビの世界での仕事、ディレクターやプロデューサーの仕事で一番多かったのは旅番組担当作品だったと思う。ローカル番組の朝のワイドショーなどで、関西中心のいろいろな旅番組や料理や味の番組作りに熱中した。その中でも一番印象深いのは「ふるさとZIP探偵団」のプロデューサーとしてで10年近くの長寿番組だったと思うが関西のあらゆる所を取り上げてロケやスタジオで、又ドラマの効果担当のころでは「どてらい男やつ」での番組作りなどが一番印象が深い。

 

 私が就職した頃の日本は高度成長期だった。世界の動きと日本の動きで目ぼしいことをあげると

  1960 カラーテレビ放送開始 日米安全保障条約締結

 1958~1961 神武景気に続く42か月の岩戸景気、三種の神器

 1962 キューバ危機

 1963 関西テレビへ就職 ケネディ米大統領暗殺と初の衛星生中継

 1964 東京オリンピック 新幹線開業 中国初の核実験

 1965 日韓基本条約の調印

 1966 中国文化大革命 ビートルズの来日

等がある。

 又、私の家族のことについて少し記録に残したいこと

   父 熊雄 大正3(1914)年7月4日生まれ、平成9(1997)年4月18日82歳で死亡

   母 達子 大正4(1915)年3月29日生まれ、平成19(2007)年9月3日92歳で死亡

   J.L.Ward 大正6(1917)年8月10日生まれ、平成11(1999)年4月18日81歳で死亡 

   弟 桂一 昭和21(1946)年3月2日生まれ、平成11(1989)年2月12日42歳で死亡

 

ふるさとZIP探偵団 

西郷輝彦主演「どてらい男やつ」 

 私は1963年4月22歳で関西テレビに就職した。局が出来て5年後でテレビ界は混乱の中にあった。アナログの全盛の時代を過ごして2000年8月60歳で会社を退職したが、テレビ界はデジタル時代、パソコン、IT の世界に突入していた。

私の時代は正に東京タワー電波の時代、今やスカイツリーからのデジタルの時代が展開している。

 

Tokyo Tower 東京タワー 333m (1958 12/23 築)
Tokyo Tower 東京タワー 333m (1958 12/23 築)
Tokyo Skytree 東京スカイツリー 634m (2012 5/1 築)
Tokyo Skytree 東京スカイツリー 634m (2012 5/1 築)

Change !!!

 Tokyo Skytree , Analog to Digital

 

What is the main role of Tokyo Skytree ?

 Tokyo Skytree operates as a new base for Japan's six main television networks andradio broadcasts as well as one ofthe citiy's tourist attractions. Analog broadcasts ended in 2011 and a complete transition was made to Digital Terrestrial Television Broadcasting. Five commercial TV stations as well as NHK utilize the new tower to broadcast digital TV signalsfrom height of around 600 meters. Tokyo Skytree replaced the 333-meter-tall Tokyo Tower, a symbol of Japan's capital since 1958. 

 Tokyo Skytree, the tallest tower used as a broadcasting transmitter in the world, has a height of 634 meters, 6-3-4 is Mu-sa-si in Japanese wordplay ( goroawase ) . Musasi ( no kuni ) was an old province of Japan, which used to cover a large area, including the Capital Tokyo, most of Saitama Prefecture and part of Kanagawa Prefecture ( mainly Kawasaki and Yokohama ). Tokyo Skytreewas recognized by the Guinness World Records Company as the tallest broadcasting tower in the world in 2011. 

 Tokyo Skytree is located about 1 km east of Asakusa, town filled with the cordial atomosphere of the old commercial and residential districts of Tokyo ( called Sitamachi ) that extends from Taito, Chiyoda and Chuo wards east to the Sumida River, and about 2 km northeast of Ryogoku, a town famous for sumo wrestling. 

 The Skytree houses many shops and restaurants at its base along with an aquarium and a planetarium. The main attraactions ofthe Skytree are two observation decks which are located at a height of 150 meters and 450 meters above ground. The first 350 meters observation deck offers visitors restaurants, stores and other facilities, while enjoying a panoramic view of the whole Kanto area. The second 450 meters observation deck ( called TEMBO GALLERY ) sets up a skywalk covered in glass around the observatory lobby, enabling visitors to enjoy the world's highest walkway.

 The external appearance of the Skytree is designed to have graceful curves ( called sori and mukuri ) similar to a samurai sword in the aesthetic way of traditional Japanese building so that it does not detract from the surrounding scenery.

 Tokyo Skytree employs cutting-edge Japanese technology in reproducingthe traditonalarchitectural know-how of the "Shinbashira-Seisshin" ( Central Column Vibration Control for mitigation of seismic motion ) used in theve-story pagoda. This structure is said to helpminimizethe size of tremors in the case of an earthquake and duringastrong winds. The quake-proof tower withstood damaage from the devastating earthquake that hit Japan ( The Great Eastern Japan Earthquake ) in Mrch 2011 during its construction.

 Drawing international attention, Tokyo Skytree debuted as the tallest free-standing tower inthe world.

The tower surely provides an invaluable opportunity to introduce the culture and technology of Japan to people around world.       

変わる街と50年 ・ たそがれどき

愛燦燦

作詞・作曲 小椋 佳  歌 美空ひばり

 わたしの好きな作家・大阪の華  田辺聖子

 

                                   新海誠

夏は上手に水分補給
夏は上手に水分補給

今年の梅雨は記録的に遅いということだが神戸港を見ると梅雨入り間近浚渫船が好天の海で急ぎの作業をしていた

 





ここでちょっとわがやのLDKを紹介します。片付いていませんですみません。





紫陽花アジサイを飾って楽しんでいます
紫陽花アジサイを飾って楽しんでいます